日本の学校体系の歴史

江戸時代の日本では、庶民の子弟が初等教育を受ける寺子屋と、武士の子弟が中等教育〜高等教育を受ける藩校が存在した。寺子屋を卒業したら藩校に入学するという制度ではなく、それぞれの学校は別の系統であった。

太平洋戦争までの日本の学校制度は、明治初期には単線型に近い学校体系が実施され、徐々に就学率が上昇していくにつれ、在学者の多様化などから複線型に変わって行った。例えば中学校は当初その同等機関のない単線型に近い学校であり、進学・実業の両方の教育を行っていたが、後に実業学校と中学校に分離し、複線型になることになる。特に昭和初期はヨーロッパ式の複線型学校体系が布かれていた。この体系では、尋常小学校卒業後に就職する(12歳)か、高等小学校に進むか、旧制中学校・高等女学校に進むかなど比較的早期に進路が決定される分岐型学校体系であり、特に大学などの高等教育段階の学校はかなり多極化していた。戦間期には、第一次世界大戦末期の1918年に制定された大学令を始めとして、高等教育段階の学校を大学に統合しようとする動きや、日中戦争の最中1941年の国民学校令では義務教育を6年間から8年間へと延長を図る動きがあった。しかし第二次世界大戦前に一部は実現したものの、義務教育の延長が実際にされ、高等教育が本格的に大学に一本化された時期は、1947年に布かれた学校教育法以後だった。

1947年当初の学校教育法では、小学校に続く3年制の中学校を全入にして中学校の卒業以後も高等学校を経て大学に進学するという、学校体系の完全な一本化が目指された(ただし、障碍児などを対象とする特殊教育では幼小中高に準じた一貫制の学校が作られた)。しかし完全に対応しきれない部分もあり、短期大学が認められたり高等学校では普通科と職業学科(現在の専門学科)への分化が起こった。

その後の学校教育法改正により、学校種(一条校)として中等教育学校と高等専門学校が追加され、更に専修学校制度(高等専修学校、専門学校)も追加されるなど、中等教育以降高等教育に至る課程の複線化がなされている。

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